僕が僕をやめることが出来たなら、
どんなに楽だろう
君に向かう本当
カタカタ・・
無機質な機械音が虚空に広がっては耳の奥で鳴り響く。
とても耳障りな音だと自分で思いながらも、
その音を出している張本人は紛れもなく自分で。
矛盾した苛立ちを隠し切れぬまま、パソコンと暫く独り、
戦っている孤独な自分がガラス越しに映っていた。
シュンーーーーッ・・
遠くで軽く開いた扉の音が聴こえた。
どうやら誰かがこの室内に入ってきたようだ。
といっても、誰が入ってきたかなんて、足音だけで解かるのだが。
「総士・・仕事、どうだ?進んでる・・?」
控えめな甲高い声が背後から途端に聴こえてきた。
僕はその声をどこかで待っていたような気がする。
今一番聴きたい、ーーその声だった。
「あぁ・・・あと三時間くらいで終わりそうだ」
パソコンに視線を落としながら、意識は明らかに背後へと
向かっていた。その存在の温かさが 僕の心を激しく乱す。
仕事が手に付かなくなる前に、一騎にはこの部屋から出て行って
もらわなければならない。・・僕は哀しいくらい、仕事中心の人間だった。
けれど、仕事にすべて身を捧げるつもりは毛頭なかった。
こんな不器用な自分だけれど、ちゃんと何が大切かはわかっているつもりだ。
だからこそ、今は一騎と距離を置いて、あとで仕事が終わってから
保っていた距離を縮めようと考えている。公私混同はよくない。
自分が置かれたポジションというのは、
そういう立場でなければならないくらいの重役なのだから。
「ここにコーヒー、置いておくから・・」
「・・・あぁ、ありがとう」
短い言葉を一騎に返して、彼が部屋を出て行く様子を
密かに窺ってみた。一騎は優しい奴だから、僕の体調などを
心配して 何かと世話をしてくれる。有難いのだが、申し訳ないと思う。
「ーーーー・・・総士、あのっ」
「・・・・・なんだ?」
一騎は何かを言いかけて、素っ気無い僕の返事に
一瞬怯んだ。・・というか、僕が意図的に怯ませた、が正しいだろうか。
「−−−−−なんでも、ない・・・」
強制的に自粛した一騎。
僕は心の中で深い罪悪感に襲われたのだが、
どうしても今日中に終わらせなければならない仕事を
優先させるため、わざと突き放した声を一騎へ向けて発した。
一騎はそういうことに関しては敏感な方だ。
だから僕の意図するところにも たった今気付いたに違いない。
一騎は一瞬寂しそうな顔をして、
次の瞬間にはもう いつもの優しい笑顔を作っていた。
「仕事・・頑張って。あまり無理するなよ・・・?」
微笑みながら、僕の背中を見つめる一騎が
ガラス越しに映った。
僕は一騎の温かな眼差しに胸を詰まらせながら、
短く”あぁ”と呟いた。
そして一騎は自然とした足取りでこの部屋を出て行ったのだった。
自分でこの部屋を出て行くような雰囲気を作り上げていたというのに
いざ出て行かれると、残念なような淋しいような気持ちになるのは
傲慢だ。自分がとても卑怯な人間に思えてならない。
「・・さて、頑張るか」
止まっていた手を動かしながら、僕は
温かいコーヒーを口に含んで、一騎を想った。
コーヒーがいつもよりも 美味しい気がした。
一騎のお蔭だと思った。
+++
三時間後。
やっとの思いで仕事を終わらせ、
僕は出来上がったディスクをCDCに持っていった。
そしてその帰りーーー偶然廊下で遠見に出くわしたのだった。
「あれ、皆城くん・・・?何でここにいるの?」
変な呼び止められ方をされて、
思わず表情が固まる。
「・・・どういう意味だ?それは」
僕は少し不機嫌な声で、彼女の方へと振り返る。
すると遠見は訝しげな顔で僕を見つめていた。
「だって皆城くん、今日一騎くんと約束してたんでしょう?」
「・・・・え・・・・?」
意外な発言に、一瞬思考回路が一端遮断された。
何を言っているんだ、彼女は。
「約束・・・?」
「そうだよ、忘れちゃったの?!
今日、確か映画観に行く約束してたんじゃない?一騎くんと」
「えい、が・・・?・・・・・・・・・あっ!!!!」
思い出した。
そうだ、今日は前々から一騎と
映画を観に行く約束をしていた日だった。
しかも自分から誘ったんだ、一騎を。
すっかり仕事のことで約束を忘れていた自分。
そんな自分が憎くてたまらない。結局大切なものが
わかっていても、大切にできなければ意味がないということを
思い知る形となってしまった。
「・・・・映画、今日が最終日だよ」
遠見の言葉を聞いた途端、自然と足が勝手に動いていた。
全力で走るなんて久しぶりだ。
早く、速く、君のもとへーーーーーーー。
+++
「一騎!!!」
ベルもノックもしないで、ただ夢中でその扉を開けた。
一騎は丁度、夕飯の支度途中だった。
ここは一騎の家。今はどうやら一人きり、らしい。
「総士?!どうしたんだ・・・?いきなり」
息を切らして突然入ってきた僕に目を丸くしながら
一騎はスタスタと駆け寄ってきた。
僕は一騎に謝ろうと、乱れる呼吸を整えながら 途切れがちに
言葉を紡ぎだす。
「すまない・・・っ!・・今日、・・約束、して・・・お前と・・」
変な言語になってしまった。
上手く言葉に出来ない自分がもどかしい。
一騎は そんな僕を見つめながら、少しだけ笑った。
その笑顔を見たとき、思い出したんだ。
あの 部屋を出る前、一瞬見せた寂しそうな顔を。
躊躇して生まれることのなかった 言葉の続きを。
「もういいんだ。映画のチケットは剣司たちにあげたし。
・・・映画なんて、いつでも見れるし・・・だからーー」
一騎の紡いだ言葉が胸に刺さって、僕は思わず
目の前でしおらしく佇んでいる一騎をきつく抱きしめた。
「総士・・?」
驚いたのか、一騎の身体が刹那、緊張して強張った。
僕はそんな一騎すら愛おしく思えてならなかった。
「映画・・本当にすまない。・・今度はこんなことがないよう
気をつけるーーー・・仕事があったとしても、今度はお前と・・・」
「・・・・・・いや、いい」
「−−−−−−−−−−−−え?」
「仕事・・・・あったら、そっちを優先してくれ」
怒ったのだろうか?
仕方ないとは思う。怒っても。
けれど、何処までも優しい声色だったから、僕は自然と
一騎の身体を放し、その瞳を窺ってみた。
どうしてそんなことを、言うのだと。
「オレ・・気付いたんだ。皆のために一生懸命なお前が好きだって」
「かず、き・・・」
「仕事を優先する総士は、いつだって凄くカッコいいよ」
「・・・・・・・・・・一騎」
一騎の思わぬ告白に、僕はどうしようもない切なさを覚えて
一騎をもう一度自分の胸に引き寄せた。
一騎は黙ったまま、されるがまま 僕の胸に身を竦めた。
とても柔らかい瞳で 僕だけを見つめて。
「どうしたんだ、総士?
・・・・なんか、辛いことでもあった・・・?」
必要以上に自分を抱き締めてくる僕を
不思議に思ったのか、一騎はさり気無い思いやりで
僕の心を想った。
「・・・・・・・大切にするから。絶対だ」
「・・・そう、し・・・?」
今、気付いた。
僕が今のポジションにいるということは
決して僕一人だけが犠牲になるという訳ではないということを。
僕が大切にしたいと想う人すら、巻き込んでしまうということを。
本当の犠牲は 僕じゃなく、彼だということを。
「僕が僕をやめることが出来たなら、
・・どんなに楽だろう」
「え・・・?」
不意に想いが、君に零れた。
胸に伝わる温もりを、失いたくはなかった。
「・・・・・・・・・なんでもないよ」
君に向かう気持ちは、全て僕の本当だった。
けれど、同時に その本当が君をいつまでも苦しめる。
君をどこまでも傷つける。
手放せない存在を胸に抱えながら、僕は
自分の中の矛盾と密かに戦っていた。
君と僕が 幸せになれる未来を探して、
・・・二人がずっと離れないように。
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